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曲直瀬道三 まなせ どうさん

曲直瀬道三 まなせ どうさん

 京の人曲直瀬道三(1507-1595)は、22歳で下野国の足利学校に遊学した。前世紀の末に明から帰朝した田代三喜は、北関東の古河にあってその医名はひろく知られていた。1531年に道三は三喜のもとに参じてその医学を学び、1545年に京都に帰って学舎「啓廸院(けいてきいん)」を設けて八百人と言われるほどの多くの医生を育てた。今日の大学附属病院のようなものである。
 
 京都では将軍足利義輝や細川氏、三好氏、松永氏らの武将、はては正親町(おおぎまち)天皇らの厚遇をうけて道三の名声はいよいよ高まった。道三はまた、律令制度における典薬などの権威ある官名を独占し、医できこえた坂、竹田、半井、吉田などの名家を凌駕する新興医家でもあった。
 
 啓廸院では、『本草序列』『察病指南』『医学源流』『和剤指南』『明堂灸経』『明医雑著』などの医学書を教科書として用いていたとされている。
 
 ときは戦国時代、大名とその家臣団の生命は領国同様貴重なものであり、それをまもる時代にふさわしい新しい医学が待望されていた。道三の元には、配下の医師を派遣して欲しいという懇請があちこちの大名からよせられ、期せずして同質の医学医術が全国に普及されるという結果をもたらした。これが安土桃山時代から江戸時代末までの曲直瀬流医学の隆盛を導くのである。
 
 初代道三の門人にはのちに業を引き継ぐことになる甥の曲直瀬玄朔、施薬院全宗、秦宗巴らがある。道三の著作はすこぶる多いが、『察証弁治啓廸集』はもっとも有名である。
 
 さて、初代曲直瀬道三の著書とされるものに、『百腹図説』がある。これは大塚敬節氏の論稿によれば曲直瀬流の腹診書であって、初代と2代目道三(玄朔)の手になるものであり、古方派の傷寒論系腹診に対する後世派の難経系腹診書である。吉益東洞の『医断』中腹候の冒頭にある「腹は生あるの本、百病ここに根ざす」の有名な語句もすでにここに書かれているという。東洞は本書を熟読し傾倒していたということであろうか。
 
 今日でも腹診をわが国独自の診断技術とし、漢方医学の精華とまで評価する向きも少なくない。その一方では肝心の来歴が明らかになっていないことが痛感されるのである。
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